Who is Rakuten?


沢楽天は明治9(1876)年に、紀州徳川家の鷹羽本陣御鳥見役・北澤家第13代目として生まれました。本名は保次(やすじ)。

 

 出身は埼玉県足立群大宮宿(現さいたま市大宮区)。現在、さいたま市の大宮髙島屋のある地には、かつて北沢家の屋敷がありました。

 

 保次は日本画に長じた父親の影響で、絵画の道に進みます。

  当時開校したばかりの東京美術学校(現:東京芸術大学美術部)には行かず、父の勧めで横須賀に修行の旅に出ました。

 

 明治28(1895)年、横浜の週刊英字新聞社である「ボックス・オブ・キュリオス社」に入社。同紙の絵画欄を担当していたフランク・A・ナンキベルから欧米漫画の技術を学び、ナンキベルが日本を去った後には、その後継者として同紙の絵画欄を担当するようになりました。

 


32(1899)年、キュリオス社での活躍が福沢諭吉の目に止まり、諭吉の誘いで時事新報社に入社、今泉一瓢の後を継いで同紙の絵画記者となり、『支那の粟餅』で初めて紙面を飾りました。

 

 明治35(1902)年からは日曜版の始まりでもある絵画欄を提案し「時事漫画」と名付けて、読者から好評を博します。

 

 『田吾作と杢兵衛の東京見物』、『灰殻木戸郎の失敗』、『茶目と凸坊』など、繰り返し同じ登場人物を使い読者に定着させることで、保次は漫画にキャラクターという概念を生み出し、それまで“ポンチ絵”として蔑まれていた風刺画を、“漫画”というひとつのジャンルとして確立させることに成功しました。

 

 当時としては国際的な環境で仕事をしていた彼は、ダークスやアウトコールト、オッパーなど、アメリカのコミックストリップ作家の影響を強く受けていたと思われます。

 

 明治36(1903)年、藤村操の投身自殺事件を受け、『中央公論』に寄稿した「楽天主義」という題名の記事を読んだ読者より【楽天】と刻まれた落款が贈られたことがきっかけで、それ以降自身を「楽天」と名乗り始めます。

 

 しかし時代は日露戦争真っただ中。次第に、彼の描きたいものと会社の方向性がずれていきます。

 


の頃、大阪で発行されていた宮武外骨の『滑稽新聞』に影響を受けた樂天は、明治38(1905)年に、風刺漫画雑誌『東京パック』を創刊します。

 

 これはB4版のオールカラー印刷で、漫画雑誌としては日本で初めての試みでした。

 

 全てのページから広告までもが楽天主筆という大胆な構成で、全キャプションには英語と中国語の翻訳付きという徹底ぶりに、日本国内のみならず、朝鮮半島や中国大陸、台湾などのアジア各地でも大ヒットし、その痛快な内容はドイツ大使館から抗議がくるほど話題になりました。

 

 同年、勢いに乗った楽天は鈴木いのと結婚、順風満帆な漫画家生活をスタートさせます。

 

 このとき楽天、29歳でした。

 


期における東京パックは、もっぱら政府や警察など国家権力への風刺を扱い、社会主義にも肯定的な作品を発表していましたが、明治43(1910)年の大逆事件以降は次第に社会主義批判の風刺漫画へと作風を転じていくことになります。

 

 やがて明治45(1912)年に社主との衝突により出版社を退社すると、同年に新たな出版社を創設して『楽天パック』『家庭パック』を創刊するも、この雑誌はわずか13か月で廃刊してしまいます。

 

 一方で楽天が去った『東京パック』も人気に衰えを見せ始め、再び楽天を執筆陣に加えたが、部数減により休刊を余儀なくされた。その後も、大正、昭和とニ度に渡り復刊するも、昭和16(1941)年に休刊となり幕を閉じました。

 

 時代は大正に入り、岡本一平による日本最初の漫画家団体である「東京漫画会」にも参加し、新人漫画家の育成にも力を入れました。日本最初のアニメーション映画といわれる『芋川椋三玄関番の巻』を製作した下川凹天などを世に送り出し、楽天は「近代漫画の祖」とも言われるようになります。

 


京パック休刊後、楽天は再び時事新報社に創作拠点を置くようになりました。

 

 大正10(1921)年、時事新報から「時事漫画」が独立し、日本で初めて新聞日曜漫画版として確立、楽天は同紙のカラー漫画欄を手掛けるようになります。その中で、丁野抜作(ていのぬけさく)、物尾雄三(ものおゆうぞう)、欲野深三(よくのふかぞう)など様々な風刺的登場人物を次々と生み出します。

 

 これらの中で特筆すべきキャラクターは「とんだはね子」です。

 

 この作品は昭和3(1928)年から連載され、日本で最初の少女を主人公とした連載漫画であり、現代の少女漫画の原型であるとも考えられています。

 

 昭和4(1929)年にはフランス大使館の斡旋によりパリで個展を開催し、レジオン・ドヌール勲章を受章、画家の藤田嗣治とも交流し、そのまま世界一周旅行を敢行しました。

 


かしながら、この頃から楽天の人気には翳りが見えはじめます。

 

 読売新聞が「読売サンデー漫画」、東京日日新聞が「東日マガジン」、報知新聞が「日曜報知」を刊行するなど他紙が相次ぎ参入したことで「時事漫画」は読者を奪われ始め、昭和6(1931)年から翌年にかけて「漫画と読物」、「漫画と写真」と改題して誌面の刷新を試みるものの、ついに昭和7(1932)7月、楽天は時事新報を退社、事実上第一線から退きます。そして10月には時事新報の日曜漫画版も終刊となりました。

 

 時事新報退社後、樂天は芝白金の自宅に「楽天漫画スタヂオ」を開き、翌年には若手漫画家のために「三光漫画スタヂオ」として開放し、彼らの指導、育成に尽力しました。

 

 第一戦は退いていたものの、その知名度と漫画界への影響力を買われて太平洋戦争真っただ中の昭和18(1943)年、国が設立した日本漫画奉公会の会長を務めました。

 

 戦況の悪化に伴い、昭和20(1945)年に宮城県遠田群田尻町(現:宮城県大崎市)に疎開。

 終戦後は無償で、遺族たちに戦死者の似顔絵を描き配っていたといいます。


天は、昭和23(1929)年に北澤家の故郷である大宮市(現:さいたま市)に戻り、新しい自宅を「楽天居」と称しました。

 

 晩年は、ここで日本画を描きながら、妻・いのと悠々自適な日々を送ります。

 当時、すっかり好々爺になった楽天は周囲の弟子にこうもらしていたと言います。

 

 これからは床の間に侵入したい。

 

 昭和30(1955)年、樂天は脳溢血のため自宅で倒れ、その生涯の幕を閉じました。享年79歳。

 その翌年、大宮市は楽天を大宮市の名誉市民第1号に推挙しました。

 

 その後、妻のいのは楽天居を市に寄贈し、楽天居は日本で初めて行政が管轄する漫画ミュージアム「さいたま市立日本漫画会館」となりました。楽天の作品をはじめ、当時の漫画家たちのみならず現代の漫画家の作品や雑誌も多く所蔵され、自由に閲覧することができます。

 

 楽天を支え続けた妻・いのは、その後も楽天居に住み続け、昭和40(1965)年に死去しました。

 いま、ふたりは、大宮の東光寺にある墓所で一緒に眠っています。